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   解説者の罪

 福島第一原発の事故は終息の目処がまったく立たず、牛肉放射能汚染をみても、むしろ被害は拡大・拡散している。「この程度であれば、現在のところ健康に影響が出る数値ではない」などという解説者の無責任な話はもういらないとつくづく思う。解説者が、確定的に将来も絶対的に健康被害は出ない、被害が出たら私が保証するというなら話は別だが、そんなやつは残念ながらいない。

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 できっこないのだから、誤解を与える下手な解説はやめにして、「即座の健康被害は出ないかもしれないが確たることは言えない。まして健康上将来的にどのような影響が出るのかは分からない。絶対口に入れるべきではない」と伝えるべきではないのか。流通を止め、肉をすべて処分するというのは、そういうことではないのか。
 中国鉄道事故では、事故復旧のために地盤の軟弱を補強する必要から車両を切断して地中に埋めたと関係筋が解説したという。この解説者に言うべき言葉が見当たらない。

   無視の罪

 深刻な原発事故に対して、安全宣言を繰り返してきた推進勢力がいまだに謝罪もせず、それぞれの役職やポストに居座り、高給をむさぼっている姿も異常だ。
 原発については、55年前の日本への導入当初から技術不備の指摘があり、30年ほど前からは不備が招く具体的事故への警鐘が繰り返し発せられていた。それを知識と権限をもつ者たちが無視をしてきたことが大事故を引き起こした。対策が取られていれば、地震と津波があったにせよ、これほど深刻な巨大事故にはならなかったのである。
 中国で高速鉄道の巨大事故が起きた。高速になればなるほど、事故の深刻さは素人にも想像がつく。高速だからこそ制御の高度化と精密さが求められるのは当然である。
 中国で起きた高速鉄道の追突事故も、制御システムの不完全さが技術者によって当初から指摘されていたという。国家肝いりの施策のため、この指摘が無視されたのであろう。国家権力によって、責任者3名が解任された。本筋たちなのかトカゲのしっぽなのかは判然とせず、その後の扱いがどうなるのかを知る由もないが、責任をとる点では日本の厚顔無恥漢たちの居座りよりましである。
 二つの巨大事故に共通する無視の姿勢。問題解決型のリーダーが不在の時、問題がひずみを拡大し、巨大事故に繋がるのである。すべての組織も同じであり、問題解決型リーダー不在の組織は破綻するのである。

   国民も罪?

 国民は批判もせずに原発を受け入れていたのだから同罪ではないか、という議論がある。
 この議論に与することはできない。この議論の狡猾性は、つまるところ国民を黙らせることにある。国民はすべての事象に全能なわけではない。だからこそ、巨大プロジェクトに対しては専門性を有する者や組織に委ねる。一方でそれに対するチェック機能も社会的に措置するのである。
 巨大プロジェクトが社会全体として最適に運営される仕組みが、個々の人間の最適判断のもとで組み上げられ運営されていけば、巨大事故や破綻は回避される可能性が大きくなる。国民はこの組み上げと運営を委任するのであって、その主体として動くわけではない。主体的に動く委任を受けた者たちに責任が生じるのである。国民が同質の責任をもっているというのは、ためにする議論なのだ。
 たまたま国民が何かをきっかけとして巨大プロジェクトの事実上の起草者になったり、チェック機能の主体として行動する場合がある。そうした国民の動きは後追いになる。国民の責任はそこにある。何かのきっかけが生じたのに、行動を起こさなければそれは国民の責任だ。
 日本の国民と中国の国民に投げかけられている「きっかけ」は重い。