東池袋、神戸三宮、木更津、熊本、さいたま浦和~わずか数日の間に全国各地で交通事故により次々と命が奪われている。
幼い子供とお母さん、小学生、若者たちの命が散った。
ニュースを見ていて暗い気持ちになる。
亡くなられた方たちのご冥福を祈りたい。ケガの方たちの早い回復を祈りたい。
「交通事故?」
これらを「事故」といっていいのだろうか。
報道によれば、いずれも運転手に落ち度があるようだ。
古くから「車は走る凶器」といわれていた。
高速で走る金属の塊で人間を弾き飛ばせば、大抵の人間は死に至る。
誰がなんと言おうが、車が走る凶器であることは疑いない。
車による殺人事件が現にある。
自動車によるテロも後を絶たない。ニューヨーク、エルサレム、ニース、ベルリン、ロンドン、バルセロナで自動車による大量殺人テロが実行された。
日本ではたまたまこのようなテロは起きていないが、いつ起きても不思議ではない。
まさに車は凶器なのである。
すべての人が、車は凶器であることを認識して生活しなければならない社会になっている。
しかし、認識していても歩行者は防ぎようがない。
歩行者にすれば、凶器を持っている人間=運転手が凶器として使用しないだろうという漠然たる善意に期待するしかない。
しかしどうだ。現行犯逮捕された運転手は「ボォーとしていた」と話していると報道されている。
このような運転手の行為は「落ち度」では済まされない。「未必の故意」である。
未必の故意とは「行為者が、罪となる事実の発生を積極的に意図したり希望したりしたわけではないまま、その行為からその事実が起こるかも知れないと思いながら、そうなっても仕方がないと、あえてその危険をおかして行為する心理状態。」とされている。
「キチガイに刃物」ということわざがある。キチガイが差別用語だとして最近あまり使われないが、これも古いことわざである。
87歳になり、体も思うように動かない人間が車を運転すれば、人を轢き殺すかもかもしれないと思うであろう。もしそうした判断すらできていないとしたら、もはやキチガイといっていい。
禁句かもしれないが、キチガイに刃物を持たせてはいけない。
高齢者の運転をどうすべきか、自覚なき運転手をどうすべきか、社会問題として政府は真剣に対策をとるべきだ。