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   国際社会は現代社会になっている

 ロシアのウクライナ侵攻とその後の悲惨な状況に心が痛む。
 第1次世界大戦の教訓として成立した国際連盟。しかし、第2次世界大戦を防げなかった。その反省を踏まえ、第2次世界大戦後の1945年10月に設立された国際連合。
 国連憲章第1条には、共通の目的として、

 ① 国際の平和と安全を維持すること。
 ② 人民の自決権の尊重に基礎をおいて諸国間の友好関係を発展させること。
 ③ 経済的・社会的・文化的・人道的性質を有する国際問題を解決し、人権及び基本的自由の尊重を促進することについて協力すること。

を掲げている。
 加盟国は憲章に従って、国際紛争を平和的手段によって解決しなければならない。加盟国は、いかなる国に対しても武力による威嚇若しくは武力の行使を慎まなければならないとしている。
 二つの大戦を経て、国際社会は現代社会を形成したのである。

 ロシアの非道は、どうみてもこの社会に沿わないものであり、一員として許されることではない。
 国際連合憲章に基づいて、加盟国全体として、ロシアの非道を即時に辞めさせることが求められる。
 国際連合は国際連盟の愚を繰り返してはならない。

   成年とは何か 
 

 2022年4月1日から、成年年齢が18歳になった。
 成年になると何が変わるのか。
 一人で契約ができること、親の親権に服さなくなることであり、社会の一員になるということである。

 これは、国際社会と諸民族にも当てはまるのではないか。
 恒藤恭「憲法問題」(講談社学術文庫)の一節を紹介したい。

 「カントは『啓蒙とは何ぞや』という問いに対して、『啓蒙とは人が自らその責を負うべき未成年から脱出することである。』という答えをあたえたが、西洋の諸民族がいくらかずつ前後して、思想の上で、さらに生活態度の上で、未成年の状態から脱出するにつれて、その形成する社会は真に近代社会としての生活を備えるようになって現代におよんでいる。法律は一定の年齢をさかいとして成年と未成年との区別を立てるのであるが、もちろんカントのいわゆる未成年は法律的意義における未成年を指すわけではない。社会を構成する一員としての自己の存在について明確な自覚をもつようになったときに、個人は成年に達したものと考えられ、未だそのような自覚をもっていない場合に、個人は未成年の状態にとどまっていると考えられるのである。
 これは個人についての青年と未成年との区別であるが、民族の場合には、民族をかたちづくっている人々のより広い範囲に、ここに述べたような個人的自覚が広がって行くに応じて、民族は未成年の状態から成年の状態に移るといい得べく、ある民族の政治生活の中心をしめる階層に属する人々が十分に啓蒙されているか否かということは、その民族が成年の状態に達しているか否かを判断するための確実な手がかりとして役立つであろう。」

 恒藤恭がこの文節を記したのは、1951年4月に任を解かれたマッカーサーが、帰国後に上院委員会でのべた証言のなかで、「日本人は現代文明の標準からいえば、まだ十二歳の少年である。」といったことを受けてのことである。

   ロシアをみる
 

 恒藤恭の指摘を手がかりとしてロシアをみる。マッカーサー風に言えば、ロシアはまだ十二歳の少年であり、国際社会の一員としての自覚ができていない未成年の状態にある、となろう。政治生活の中心をしめる階層に属する人々が十分に啓蒙されていないとみていいのだろう。
 そのような人々がおもちゃではない強力な武器を持っているのだから始末が悪い。
 対抗する暴力でお仕置きをしても、根治にはならない。まずは暴力を思いとどまらせ、粘り強く責任を自覚させていくしかない。

   では、日本は
 

 日本に目を転じれば、ロシアと似たような状態ではないかと思わざるを得ない。アベなんとか、アソなんとかを見ても、政治生活の中心を占める階層の人々が十分に啓蒙されているとは思えない。
 法律的に日本では成年年齢が引き下げられた。だが、民族としての政治生活においては、ロシアも日本もまだ成年には達していないと自覚しよう。若い人々がそこを起点において日本を担ってほしいと切に思う。