支配者
ミャンマーのクーデターに伴う軍の人民殺戮ニュースに触れるたびに、背筋に冷たいものが走る。
香港における民主化弾圧、ロシアの野党弾圧もしかり。
アベ政治にも彼と思惑をともにする集団の「支配する」という狂気が見て取れた。
自分の、あるいは自分たちの仲間の要求を押し通すため、それ以外の他の人々の要求を抑え込み、それらの人々の一切の発信を抑え込み、自分たちに従うことを誓わせれば自分たちの要求通りの社会が運営でき、要求が叶うという妄想に取りつかれる人間がいる。
武家社会を描いた葉室麟は「政(まつりごと)に携わる者は、魔に魅入られたごとく変わっていくのかもしれない。」と表現した。
こうした妄想に取りつかれた人を「支配者」と呼ぼう。彼らは、様々な「もの」を利用して支配しようと考える。
支配する欲望が強ければ強いだけ、支配するための「もの」にも妄想がおよび、「もの」に強力さを求める。
その思考回路と行動は、徐々に狂気をおびることになる。その本質は「恐怖による支配」である。
その変化
はじめは、被支配者に対する利益誘導が行われる。
「ものを与える」
「金を与える」
「地位を与える」
「未来を与える」
ここではかなりの「大言壮語」「嘘」「虚言」が弄される。
それがだめなら、逆に剥奪・否定という「ゆるい恐怖」にむかう。
「ものを与えない、奪う」
「金を与えない、奪う」
「地位を与えない、奪う」
「自分たち以外の未来を暗い未来と否定する、未来を奪う」
それでもだめなら、「じかの恐怖」をテコとする。
「しかる」
「だまらせる」
「罵倒する」
「つるし上げを行う」
それでも従わないなら、「生身の恐怖」を与える。
「追放する」
「暴力をふるう」
「拘禁する」
それでも従わなければ、「終局の恐怖」で支配しようとする。
「殺す」
「処刑する」
「集団的に抹殺する」
このように「支配する」という狂気は連鎖し、狂気の強度を強め、それが破局するまでやむことはない。
いまミャンマーはこのただなかにある。
歴史は
では、この狂気を破綻させ、正常化させるにはどうすればいいのだろうか。
人類は、「支配者」の狂気に何回もさらされてきた。そしてその狂気を破綻させる歴史も積み上げてきた。歴史が教えるところは、狂気を破綻させてきたのは「力」による抑え込みであるという点である。
悲しいかな、ここに現実がある。
日本の東條、ドイツのヒットラー、イタリアのムッソリーニの破綻はほんの80年前の話で、軍事的力によって彼らは破局し、「支配者」から引きずり降ろされた。
彼ら狂気にはまった「支配者」には、その他の人々との会話は成立しない。この3人の狂気に支配された「支配者」は極端な人間ではない。
会話の成立しない「支配者」は、アベ何某をはじめ枚挙にいとまがない。何某は「終局の恐怖」までに至らなかっただけで、「大言壮語」「嘘」「虚言」「罵倒」などの狂気をいかんなく発揮して「支配」しようとしたのはごく最近のことだ。
この何某も、コロナという望外の「圧力」に無力をさらして「支配」から自ら逃げ出したのであって、被支配者である民衆の声が破局させたとは言えない。
狂気は止まらない
ここに考えを巡らしながらミャンマー軍の暴虐ニュースに接すると、暗澹たる気持ちになる。
人間が社会的動物といわれるのは、互いに共同・協働して支えあいながら食料を確保することで類としての人類を維持・繁栄させざるを得なかったからだといわれている。
そこで言語が生まれ、会話する能力を類として身につけてきた。
この会話する能力こそ、人類共通の基本的財産である。
この基本が通用しない「狂気の支配者」をどのようにすれば人類の共通基盤に立たせることができるのか?
ひとつの答えは、「狂気の支配者」に恐怖を与え、自分の狂気を押さえることが自分の生存につながることという選択を迫る「地球的な恐怖圧力」をかけることではなかろうか。
しかし彼らもまた歴史から学んでいる。仮に圧力に屈して「狂気の支配」を解いたとき、民衆は彼の犯罪と生存を許さないことを。
分かっていても止まらない。まさに「魔に身入れられた」人間となるからであろう。
だから、毒を食らわば皿までとなり、一度狂気の支配にはまり殺戮という「終局の支配」を行った者たちは、破局まで突き進むことになる。
ミャンマーはどうなるのであろうか。
支配をめぐる人間のありようには、楽観的な考えが浮かばないのである。