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   丸山眞男の指摘

 自公政権のコロナ対策を見ていると、いろいろ批判はあるが丸山眞男が戦前の軍国主義国家を「無責任の体系によって支えられたウルトラ国家主義」と評した言葉が浮かびでてくる。

   無謀な作戦

 日本でコロナの第3波が引き起こされたのは、「GOTO作戦」強行の結果である。
 筆者の勝手な決めつけではない。1月21日、京都大学の研究グループも数値を示して「影響した可能性がある」と医学誌に発表している。

 この作戦、「経済最優先」、といっても経済的弱者を守るという発想ではなく、観光族の議員が観光業界のために税金のばらまきを餌にして観光や飲食に国民を向かわせ、金を使わせることで観光業界に恩恵をもたらし選挙の票に結び付ける作戦で、コロナという見えない強固な敵など恐れるに足らず、とにかく出歩け、突っ込めという無謀な作戦である。

   インパール作戦とは

 これ、昭和19年3月に開始した太平洋戦争最大の無謀な作戦といわれている「インパール作戦」と構図はほとんど一緒といっていい。
 インパール作戦は3週間の予定でインパールを陥落させるという作戦で、3週間分の兵糧しか持たずあとは現地で調達しろと、3個師団9万人の兵隊が動員された。
 もともと無謀な作戦だと指摘され、途中でも撤退を師団長から進言されているにもかかわらず、功名に走った牟田口廉也中将が師団長を解任し無謀な突撃指令を繰り返し、3万人が死亡、傷病者は4万人と無残な結果となった。
 この作戦を取り仕切った牟田口廉也中将は、インパールを陥落させる見通しを、「5000人殺せばとれる」といったという。日本兵を虫けらのように考えている指導者は、結局3万人殺してもインパールを陥落させることはできなかった。その責任を問われたとき、牟田口は「インパール作戦は上司の指示だった。」と自らの責任を認めることもせず、戦後のうのうと長生きしている。
 戦争を指導した大本営作戦課長・服部卓四郎は、「インパール作戦は、大本営が担うべき責任というよりも、南方軍、ビルマ方面軍、そして、第15軍の責任範囲の拡大である。」と証言し、責任を回避している。
 まさに「無責任の体系」そのものである。
 NHKが「NHKスペシャル 戦慄の記録インパール」として、この作戦を特集した。ホームページで「読むNスペ」として放送した内容を確認することができるので、是非見ていただきたい。

   まるで一緒
   

 「GOTO作戦」で突撃を指導したのはあの人やあの人である。撤退しか生き残る道はないのに、撤退をずるずると引き伸ばし、逆に突撃命令を出して死亡者を増大させた。
 やっと撤退を決め、出歩くな、会食はやめろと兵隊に号令するが、自らはステーキ会食をして何が悪いとうそぶいている。
 牟田口中将がダブって仕方がない。責任を取る気は微塵もないのだ。

   公共空間を私的にもてあそぶな
 

 丸山眞男が戦前の日本を一刀両断した無責任体系が、そのまま当てはまる悲しい状態が日本を支配している。
 「無責任な体系によって支えられた集票至上主義」と言い換えてよい。
 この主義をアベノミクスなどと恥ずかしくもなく言い募ってきた司令官は、責任を取ることもなく逃げ出した。
 新たに司令官となったガースー司令官は前司令官踏襲と、これまた責任を取ろうとしない。
 そのガースー司令官の後ろ盾であるムダグチ中将は威圧するばかりでコミュニケーションなどどこ吹く風である。
 この3人の空間は、公共空間に値せず、私的空間に属している。

 この3人には到底理解不能であろうが、政治の世界は公共世界であり、それが成り立つ一つの要素は「責任ある言行」である。責任には応答という意味が帯びている。
 その応答は、客観的真理、規範的正しさ、主観的誠実さという三つの次元が裏打ちされたとき討議が成立するといったのは、ドイツのハーバーマスであった。このハーバーマスの指摘を生かしたのがドイツの社会民主主義政党のドイツキリスト教民主同盟である。
 その党首であるメルケル首相が国民に話していることは、まさに三つの次元に裏打ちされているから公共の会話として成り立ち、国民の心に響くのである。

 日本の現状は、公共という場が、一部の者たちによって私的空間とされているところある。公共が存在していない。ご本人たちは気が付きもしないし、今後も理解できないであろう。このような人たちを、公共空間の支配者にしてはならない。