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    闘う姿勢の見えない政治家

 コロナ第二波の最盛期、国のトップに立つ政治家である首相の顔がまったく見えなくなった。
 国民の命と健康及び生活が現に脅かされているとき、それに立ち向かい闘うのがすべての政治家の責務ではないのか。政権はその中枢を担う。
 その政権を束ねるのがトップの内閣総理大臣である。そのトップが先頭に立って闘わず、担当大臣に任せているから責務は果たしているとのたまったとしても、それは言い訳にもならない。

 国民のために国会を開いて対策を深めるべきだと、野党が憲法に基づいて国会開催を要求しても、応えようとしない。闘いから完全に逃げている。
 仮に、体調が思うに任せないなら、そのことを国民に告げて、次善の策を取るべきだ。国民は命と生活の恐怖に立ちすくんでいるのだ。その課題に闘えないのなら、猶予はない、直ちにトップの座を闘える政治家に託すべきだ。それがトップに立つ政治家の責任である。そのような判断もできないのだろうか。

 国民の多くは、首相の体調がすぐれないと思っている。大丈夫かと心配もしている。一方、闘う姿勢の限界も見えたので、支持できないと判断する国民が増えているのも当然である。
 その国民を首相はどう思っているのであろうか。アベノミクスを支持する単なる愚民だと高をくくっているとしか思えない。
 首相からは、国民の命と生活を守ろうという政治的闘争心がまるで届かない。実際に動きも見えない。
 できないのなら、責務を果たせないのだから、内閣総理大臣の座に恋々とすべきではない。

   菅官房長官は自分の発言を思い出せ

 森友問題で、前川喜平文部事務次官を政権が攻撃する事態があった。
 その時、菅官房長官は前川氏を指して、「地位に恋々としがみついていた」とのたまった。菅氏は「私はそう思って申し上げました」と国会で答弁している。
 この意味するところは明白だ。前川は、責務を果たせもしないのに、地位に恋々としがみつく下等な人間だという印象を与えるためである。これこそ下劣な印象操作であったが、責務も果たせないのに地位にしがみつくことを官房長官としては非難すべき状態だと思っているということでもある。

 地位に恋々としがみつく……極めてきつい批判の言葉である。
 だが、政治家においては、これを受け止めなければならない。国民は国政を託しているのだ。それができないとき、地位に恋々としがみつく政治家を国民は許容しない。それは国政の基本的な成り立ちであり、冷厳に貫かれる仕組みだ。

 政権を担う政治家たちはこの事態を政治家として判断すべきだ。
 菅官房長官の地位に恋々としがみつくという言葉を知悉し、実際に公的場で使っている。政権を担う一員なら、いま何と闘わなければならないのかを政治家として判断し、闘う政治家としての判断を示すべきだ。 

   自ら判断できないようなので
    内閣不信任決議の可決をもって即時の交代を

 お友達内閣でお友達は守ろうというのでは、国民の信任は離れる一方となる。
 いま、のんびり様子を見ていたり、お友達をかばっている時ではない。
 そのような政治家たちはすべて地位に恋々としている者といえる。なんとも情けない政権のもとでは、命も健康も生活も守れない。
 彼らに政治家として闘う姿勢はない。野党は内閣不信任決議を突き付けるべきだ。