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   憲法前文をいま一度

 日本国憲法
(昭和二十一年十一月三日憲法)

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

 改めて憲法前文を読んでみた。皆さんもぜひ読んでみていただきたい。
 冒頭からズバリときている。「正当に選挙された国会における代表者を通じて」とある。
 つづけて、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託による」とくる。
 議員が選挙で選出され、その議員の中から国務を担う内閣が組織され、国政が運営される仕組みであるが、スタートの議員選挙が違憲で無効とまでされているわけだから、国政自体が違憲状態にあるといってもよい。
 骨のある裁判官が憲法に則って、厳格にかつ論理的に判決文で指摘してもよいのではないか。
 訴えが選挙に限っているので踏み込んでいないが、1票の重みが是正されなければ、国政自体が憲法に立脚していないという訴えを起こしていくことで、是正の速度は増すと思う。これまでこの闘いを切り開いてきた弁護士の皆さんに検討していただきたいものだ。

 どうも政治家の皆さんで、特に国政を担っている皆さんのなかに、憲法がたまらなく邪魔だと思っている人がいる。「その権威は国民に由来し」などと、国民の下僕たる位置づけが我慢ならないようだ。
 だから憲法改正に血道をあげようというのであろうが、特に安倍首相は憲法改正に積極的である。
 その安倍さんの憲法観が何とも子供じみているというか出鱈目というか。
 24年12月14日、グーグルの「政治家と話そう」というイベントで安倍さんが開陳した憲法批判がある。

 あの、日本国憲法の前文にはですね、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意したと書いてあるんですね。つまり、自分たちの安全を世界に任せますよと、いっている。そして、専制と隷従、圧迫と偏狭をこの地上から永遠に除去しようと務めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。自分たちが専制と隷従、圧迫と偏狭を無くそうと考えているんじゃないのですよ。国際社会がそう思っているから、それを褒めてもらおうと、いじましいんですけどね、みっともない憲法ですよ、はっきり言って。これは日本人が作ったんじゃないんですからね。こんな憲法を持っている以上ですね、えー、外務省も自分たちが発言すると言うのは、憲法上、義務づけられていないんだから、それは国際社会に任せるんですからね。精神がそうなってしまっているんですね。まぁ、そこから変えていくと言うのが私は大切だと思います。

 前文をどう読めばこんな解釈を展開できるのか、コラム子は理解不能。
 前文の最後の言葉は、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」である。
 安倍さんには、崇高な理想と目的を読み取る能力がないようだから、全力を挙げて達成しようとも思っていないに違いない。
 芥川龍之介が生きていて、「侏儒の言葉」にこの動きを書き付けたとしたらどのような警句としただろうか。