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 経済とは

 経済という日本語は、幕末維新の頃に入ってきた英語の「エコノミー」の訳語である。
 その訳にあたって、「世の中を治め、人民を救う」という意味を持つ漢語の「経世済民」の略語である「経済」をエコノミーの訳語としたわけで、これが日本にとどまらず漢語文化圏に定着したとされている。

  経済格差 前提

 萩生田光一文部科学相が、来年から始まる大学入学共通テストに関しては「身の丈」にあせて受験しろと言い放った。そのあと撤回したが撤回してすむ話ではない。
 民間のお金のかかる英検などを利用する受験であるから、お金をふんだんに使える受験生は何回でも試しができ、有利になることは疑いない。
 いみじくも萩生田氏は予備校通学を引き合いに出した。お金のある受験生は、高額の予備校に通ったり、家庭教師を雇って受験対策をとる。それと同じだというのである。何のことはない、お金持ちは有利だといっているのだ。
 そこで、改めて彼が言う「身の丈」を定義するとすれば、ズバリ経済格差のことである。
 1950年、時の蔵相池田勇人は「貧乏人は麦を食え」と言い放った。
 萩生田氏の発言はこれに等しい。池田も萩生田も経済格差を是として、それに沿った生き方をしろというのである。

  貧困の再生産

 労働政策研究・研修機構の周燕飛研究員は「貧乏専業主婦」という用語を使い、専業主婦家庭は貧困率が高いという実態に言及している。
 子育てが一段落した場合、これらの専業主婦が貧困から抜け出すために就職するとすれば非正規のパートで、低賃金構造の支え手になり、「非正規のワナ」に陥っている女性は一向に減る気配がないとしている。
 専業主婦家庭で貧困家庭における貧困は、子供の育児・教育に跳ね返り、経済格差が固定化していくことになろう。

  階級社会化

 この結果、経済格差という状態を通り越し、現在は階級社会の様相だという指摘もある。
 上流階級は子・孫へと資産も資金も地位も引き継がれ、ずっと上流階級を形作る。一方下流階級は余程の幸運がなければ下流階級から抜け出せない社会となる。
 一億総中流など遠い過去の話で、そのような社会状態にあるときは活力が生まれるが、階級社会になれば、活力ではなく階級間の反目で社会はオリが溜まっていく状態となる。
 ときおり、昔では考えられないような事件が発生するが、その反映といえなくもない。

  安部政権 経済政策の失敗

 いまの為政者は、このような階級社会化しつつある状態に対し、本来の「経済」によって世の中を治め人民を救うという立場に立たない。
 逆にいまの為政者は上流階級はより豊かに、下流階級はあてにならない「上流階級の滴り」をあてにして、身の丈の生活をしろというのである。
 これは経済政策の確信的放棄にほかならない。

 萩生田氏が安倍首相の最側近で、安倍さんのアナウンス係を担っているとすれば、萩生田氏の「身の丈」発言は「経済の安倍」の転換宣言とも受け取れる。
 なにしろ、安倍政権下で経済は停滞し続けているのだから、「安倍は経済は放棄」ということだろう。
 ということは、安倍政権は経済政策について能力がないということになる。
 萩生田氏の発言は政権の「身の丈」、つまり限界を宣言したに等しいのだから、自らの身の丈にふさわしく、経済政策を遂行できる上質の政権に譲ったらどうか。
 国民は、「貧困専業国民」になりたくない。最近腹の立つことが多いが、萩生田氏の今回の発言には本当に腹が立った。即座に公職から去っていただきたい。