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   やがて、時代小説に

 こう言ってはなんだが、平成二十九年十月二十二日(2017年)の総選挙は歴史に残りそうだ。
 ということは、今年の総選挙もあと400年もすれば歴史小説の題材になる。
 藤沢周平が2417年頃に生きていれば、今回の総選挙を歴史小説として書いたに違いない。
 叶うはずもないが、愛読家としてはぜひ書いてほしいと願うばかりだ。
 藤沢周平は「本能寺の変」を題材に「逆軍の旗」という歴史小説を書いている。
 あの有名な「本能寺の変」は天正十年六月二十一日(1582年)で、いまから435年前のことである。
 今回の総選挙を眺めると、この「逆軍の旗」が頭を駆け巡った。
 文春文庫で簡単に手に入るので、「解説」まで含めてぜひ読んだほしい。私がお勧めする意図が分かっていただけるはずだ。
    文春文庫の表紙
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   2人の主人公

 さて「逆軍の旗」だが、明智光秀を主人公にしているが、小説には光秀がとらえた織田信長がもう一人の主人公として生々しく浮かび上がる仕組みになっている。
 小説では織田信長が自ら言葉を発するなどの場面はない。あくまで光秀の頭にある織田信長、光秀の下した評価で織田信長が描かれる。
 権力者と逆軍の将の二人の主人公。
 この文春文庫では湯川豊氏が「解説」を書いている。その解説から少し引用することにしたい。

   なぜ光秀が信長を殺したのかについて……

 湯川氏の解説は、 「この小説に従っていえば、光秀を信長誅殺にまで追い込んだのは、彼が信長の狂気を見、それに全身を震撼させるような恐怖を感じたからである。
 信長は、叡山焼打ちで数千の僧俗を殺した。尾張長嶋の一向一揆の男女二万を殺した。信長に叛いた荒木村重の一族千百五十人を虐殺した。あらゆる権力を手中にしつつある男の計り知れぬ傲慢がそこにある。それと同時に、自分に向けられた侮蔑(と思ったこと)に、向けた相手を抹殺するまでは決して忘れないという心の持ちようがある。光秀はそこに狂気としかいえないものを見た。」とし、

 さらに湯川氏は藤沢周平の言葉を載せている。
 藤沢周平は「信長には、見えている者の、見えていない者に対するエリートの傲慢さ、ルイス・フロイスが悪魔的傲慢さと記述したような人間に対する傲慢さがある。終わりが悲劇的だったのは故なしとしない。」と言葉を継いだと紹介している。
 続けて湯川氏は光秀のその後に触れている。
 「光秀は、天下取りの野心を裡に秘め、はっきりした成算あって信長を殺したのではない。本能寺の変以後の、自分の陣容の構えをつくるのが、奇妙なほど遅いのである。」

 藤沢周平が描いた「逆軍の旗」は、まるで今の政治状況を描くかのごとくである。

   共謀罪 故なしとせず

 光秀の信長誅殺はテロといえるだろう。
 テロ等準備罪(=共謀罪)はこの7月11日から施行されている。
 このトピックスが、藤沢周平の「逆軍の旗」を誰かに当てはめるような書き方をしたらどうなるであろうか。
 地図をもって花見の会場をウロチョロしたら「共謀罪」で逮捕されかねない。藤沢周平いうところの「故なしとしない」というわけだ。
 「組織的犯罪集団」なんてものは、「いいね!」で共感したものたちが「集団」だと権力者が認定すれば、「組織的犯罪集団」にされかねない。
 だから、ひねくったり、おちょくったりする言論でも共謀罪で引っ張られかねない。こうした表現は「表現の自由」のもとでは大事な表現方法なのだが、つい「自粛」する意識が働く。
 なんとも嫌な時代になったものだ。

 理不尽なものに対する鋭い筆致がさえ渡った藤沢周平。彼なら今回の総選挙をどのように書くであろうか。あの怜悧な文章が読めないのが返すがえすも残念である。