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司法も市民の監視下に

 20095月に検察審査会法が改正され、検察が不起訴にした事案について市民の判断で強制的に起訴できる制度が導入された。
 検察や裁判などの司法が、これまでは記憶力が良い法律知識を習得するのに長けた専門家といわれる特殊な集団の牙城として、一般的市民感覚からかけ離れた存在となっていた。

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  とりわけ検察はやりたい放題といったところか。はっきりいえば、素人は立ち入るなという世界を築いていた。
 国会が歴史の進捗に合わせて次々と法律を制定することになる。その流れのなかで、制定された法律の適用の是非をめぐっては、司法に判断を仰ぐことになる。この仕組みは不法や独裁を許さない仕組みとして、歴史的な到達点であり結構なことだ。
 ところが、司法が特殊集団の牙城になると、せっかくの歴史的到達点が機能しなくなる。

 人間の社会は厄介なものだ。おごりが組織の風潮になってしまう。

 今度は、司法の見直しを国会が法律によって進めることになる。司法の牙城にメスが入り、そこで歴史の歯車がまたひとつ動くのはいいことだ。
 検察審査会法の改正は歴史が回転したのだ。 

 小沢事件 

 ひとつの事件が明らかになった。
 著名な政治家である小沢一郎氏の政治団体が、正確に報告すべき政治資金収支報告書を虚偽記載していたというのである。
 これは懲役刑の対象となる。
 はっきりしているのは4億円、その他を含めると約7億円(新聞報道)を虚偽記載していたというのである。なお、4億円は小沢氏の身内が絡むお金である。
 ところが、虚偽記載は小沢氏の秘書が勝手にやったことで、政治団体の代表である小沢氏は知らなかったので起訴するに及ばすと検察が判断して不起訴とした。
 20095月の改正前であれば、これで終わりである。
 市民感覚からすれば不自然極まりない。
 そこで、市民団体が改正法を使って強制起訴に持ち込んだ。

 その判決が426日にあった。小沢氏無罪である。

 政治団体の代表である小沢さんが主張し続けたのは、報告書は秘書に任せており、共謀はしていないということにつきる。
 判決骨子は、「強制起訴は法にかなっている。虚偽記載もあった。だが、秘書がやったことで、小沢氏が共謀してやったとは認定できないので、小沢氏は無実である。」というものである。
 市民感覚からいえば、腑に落ちない。司法改革はまだ時間がかかるのかと思わせるし、この事件はまだこれからの展開があるかもしれない。だから、見守りたいと思う。 

 従業員の不始末は

   社長の認定賞与 

 税務調査で従業員が売り上げをネコババして使っていることがわかった。
 調査官はなんと言ったか。

 「従業員の不始末は社長がしっかり管理していなかったからだ。管理不行きの社長の責任だから、売り上げ除外は社長の認定賞与だ。」

 本当の話である。
 調査官の裁断は賦課権の発動である。課税処理としては到底納得できるものではないが、(屁)理屈だなあと感心する。
 この調査官なら小沢一郎氏に対してなんと言うだろうか。 

 早くも改悪の動き 

 判決はさておき、この裁判の歴史的位置付けは大きいと思う。
 検察の判断に対して、市民がチェックを入れる。秘書が秘書がといって逃げる政治家の逃げ得にも市民がチェックを入れられる。

 民主主義の大きい一歩を実感するとともに、大きな武器を手にした市民の力量も試されることになる。国民みんながこの事件を自分の世界のものとして受け止め、今後につなげたいものだ。

 ところが、別の受け止め方をする人たちがいる。危機感を持った政治家の皆さんが、市民による強制起訴に縛りをかけようと改悪に向けて動き出すという。
 さもしい限りだ。